現役中に亡くなった横綱~大相撲のちょっと切ない話

吊り天井

今年納めの九州場所、土俵に上るお相撲さんたち、特に若手が連日熱戦を繰広げています。

今場所は相撲に直接関係ない話がニュースの見出しに躍っているのが残念ですがここは閑話休題的気分転換に土俵の外で起きたちょっと切なくなるお話をいくつかご紹介します。

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【玉の海の付け人の言葉】

長い相撲の歴史の中には現役中に亡くなった力士が何人かいます。その中でも横綱現役中に亡くなったのは玉の海(二所ノ関~片男波部屋)だけではないでしょうか。

玉の海

玉の海の横綱昇進は1970年3月場所、現在相撲界説でけっこう言いたい放題している北の富士と同時昇進でした。これをきっかけに玉の海と北の富士は最大のライバルであり大親友になります。

横綱昇進の翌年7月のこと、玉の海は虫垂炎を発症します。それでも場所後の夏巡業に参加したのですが痛みに耐え切れずに途中休場してしまいます。症状は重く、早急な手術が必要だったのですが横綱としての責任感と9月場所後に控えた大横綱大鵬の引退相撲を欠席するわけにいかないと痛み止めの注射を打ちながら9月場所に強行出場して12勝をあげました。

大鵬の引退相撲の太刀持ちを務めた玉の海は翌日も他の力士の引退相撲に出場し、その足で入院します。ただちに手術が行なわれましたが腹膜炎を起こす寸前まで悪化していました。

玉の海の手術は成功しました。ところが明日は退院という日の朝、玉の海は突然「苦しい」と言って倒れ、その日のお昼前に亡くなってしまいます。手術後の肺血栓が原因でした。太った人は手術後に血栓が出来やすいのですが当時の医療ではそれがまだ知られていなかったが故の悲劇でした。

大親友玉の海の急逝を知らされた北の富士は「ふざけるのもいい加減にしろ!」ととりあいませんでしたが、それが本当だと分かると人目もはばからずに号泣したそうです。

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玉の海は広い肩幅のお陰で上手を取られにくいという取り口の横綱でした。納棺された玉の海を見て付け人がぽつりと口にしました。

「横綱、窮屈そうだな…」

その言葉に周りは涙をこらえ切れなかったそうです。

横綱としての責任…大事なことではありますが、無理をせずに早く手術しておけばこんな悲しいことにならずに済んだろうにと惜しまれます。

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【稀勢の里は悪くないんだけれど】

横綱昇進早々に怪我をしてなんだかもうハラハラドキドキな相撲になっている稀勢の里ですが、これまでに土俵の外でいろいろと難儀なことに見舞われ、今もしこりを残したままのようです。

2011年の九州場所は稀勢の里にとっては大関獲りの大事な場所だったのですが場所直前に師匠の13代鳴戸親方(元横綱隆の里)が急逝してしまいました。

親方のいない部屋は部屋として認められず、所属の力士は本場所に出場することが出来ないため、急遽部屋付の親方だった9代西岩親方(元幕内隆の鶴)が14代鳴戸を襲名して事なきを得ます。稀勢の里は師匠の急逝を乗越え、めでたく大関昇進を果たし、師匠の遺影の前で伝達式を行ないました。

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それからしばらくして、2014年に相撲協会が公益財団法人に移行することに伴って年寄名跡を協会で一括管理することになり、2013年12月20日を期限として名跡証書の提出を求められます。ところが鳴戸の名跡証書は13代鳴戸の奥さん(つまり元のおかみさん)が所有していたのですが、話し合いが不調に終り提出を拒否されてしまいます。

なぜ先代のおかみさんが名跡証書を渡さなかったのかは明らかにはなっていませんが、協会一括管理の背景には取得に億のお金が動くといわれるほど年寄株が高騰していた問題がありました。たぶん先代も部屋持ち親方になるためにかなりのお金が必要だったでしょうし借金も残っていたかも知れません。そういった部分で折り合いが付かなかったものと思われます。

名跡証書を提出できないと再び部屋消滅の危機です。このままでは所属する稀勢の里や高安、若の里らは初場所に出られません。

そこで14代鳴戸親方は鳴戸の名跡を諦めて2012年2月に急逝した14代田子ノ浦(元幕内 久島海)の奥さんが所有していた田子ノ浦の名跡を取得して協会に提出し、部屋の名称を鳴戸部屋から田子ノ浦部屋に変更するという離れ業で乗り切ります。

千葉県松戸市にあった鳴戸部屋は先代一家が暮らす家でもありました。元のおかみさんとの話し合いがこじれた以上、部屋の施設を出なくてはなりません。部屋の弟子衆は午前中は普通に稽古し、夜になってから慣れ親しんだ部屋の施設を後にします。

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この時のことを後に13代鳴戸未亡人が話すには、「一言の挨拶もなしに出ていった」とのことでした。まるで夜逃げです。田子ノ浦の名跡を提出した翌日のことでした。

それから3年。どーーーーしても優勝に手が届かなかった稀勢の里がやっとこさ優勝した場所直後のインタビューでこう言ってました。

アナウンサー:先代の師匠にはもう報告されましたか?
稀勢の里:はい 家の前で手を合わせてきました。

ああ、悲願の初優勝だったのに。稀勢の里は先代宅の敷居をまたぐこともなく、お仏壇に線香立てて直接報告できなかったんだな…。

【一人ぼっち】

今年3月に17年の土俵人生に別れを告げた元関脇朝赤龍の涙のお話。

錦島親方

朝赤龍、本名バダルチ・ダシニャム(愛称はダシ)少年は1歳年上の朝青龍、本名ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ(愛称はドルジ)少年とともに来日し、揃って明徳義塾高校に入ります。

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この頃のドルジはなんか可愛い(笑)

高校卒業後は一年先に角界入りしていたドルジを追うように同じ若松部屋(後に高砂部屋)に入門します。この当時はまだ外国籍の新弟子受け入れ人数に制限がありませんでしたから、二人はまた同じ釜の飯を食べる間柄になりました。四股名は兄貴分の朝青龍と対になる朝赤龍となりました。

朝青龍は持ち前の素質を存分に生かして横綱まで上り詰めたものの、場所中に知人男性に暴力をふるったかどで2010年に引責引退を余儀なくされます。と言っても朝青龍の場合はそれまでに何度も騒動を起こす困ったちゃんでしたから、累積退場になった、みたいなイメージでしたが。

引退が決まったとき朝青龍が朝赤龍に電話でそのことを告げると、朝赤龍は泣き出したといいます。

朝青龍:ダシが一人になっちゃったよ

朝赤龍:ドルジ、やめないでよ(泣)

朝赤龍が来日したいきさつにはちょっとした裏話があります。

実は、素質十分のドルジ少年をスカウトして来日が決まったとき、一人じゃ寂しかろうといわば話し相手みたいな役割で以前から友達同士だったダシ少年も一緒に来日することになったのです。ですから、朝青龍がいなければ朝赤龍もいなかったでしょうし、朝赤龍がいなければ寂しがりの朝青龍も途中で投げ出していたかもしれない特別な関係でした。

ダシが一人になっちゃったよ という朝青龍の言葉には、ずーーっと一緒にいてお互い支えあった二人の関係が端的に現れているように思います。

気まぐれで敵を作りやすい朝青龍と違って朝赤龍は柔和で周囲に慕われました。今年4月に帰化申請が通り日本国籍を取得。日本名はモンゴル名のままだそうです。

現在は錦島親方として高砂部屋付きで後輩の指導にあたっています。モンゴル勢についてはいろいろ悩ましいこともあるでしょうが、頑張って欲しいですね。

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